昭和54年08月02日 朝の御理解
御神訓 一つ
「打ち向かう者には負けて、時節に任せよ。」
教祖の神様の御信心から頂きますと、時節そのものが神の働きと見ておられますね。時節。又は時期とか時節とかとこう申します。その時期そのものが神の働きと見る。そういう見地に立ってでなからなければ、「打ち向かう者には負けて、時節に任せ」と言った様な事は出来ません。いうならば神様の働きを信じておるからこそそれが出来るのです。又の御理解に、例えば人が乞食じゃというても泥棒だというても、腹を立てるなと仰る。物をもろうて歩かなければ乞食じゃない。人の物を盗らなければ泥棒じゃない。
しっかり信心の帯をせよとね。しっかり信心の帯をするという事が、神様の働きを信ずるという事だと私は思うです。又の御理解にゃ神が顔を洗うてやるともおっしゃる。神の事をとやこう口端にかける者があるけれどもね、それは神の比礼だとおっしゃるむしろ。神様の働きだとこう仰る。だから腹を立てずに、いわゆる今日の御理解で申しますと、時節を待てと神が顔を洗うてやる。そこにいうなら私一人の助かりではなくて、自他共に助かるという手立てといものが、時節を待っている間に出来てくるんです。
私は金光教の信心の一番素晴らしい所、一番素晴らしいというとまぁ素晴らしい所はあんまり沢山ありますからね何ですけれども。まぁ思うんです本当に。昨夜のお月次祭の御理解じぁないですけれども、昨日はどういうもんでしょうか鹿児島あたりからまで、あのう大きなメロンが幾箱もお供えが来てたんです。だからもう大盛台にメロンを盛るごたったです。そしたらそのメロンの事から御理解頂いたんですけれどもね。まぁ何というても果物ではやはりまぁ果物の女王と言う訳でしょうかね。最高だとこいう。
勿論値段もどういう果物よりも高い訳ですけれども。高級な料亭とか食堂に参りますとやはり食後の果物は必ずメロン。やっぱりメロンが一番よいと言う事になっておるんです。第一香ねりが他の果物の追従を許さないです。味ですもうとにかく口の中でとろけるような味、もうその味風味香りと言った様なね、そのうやはり王者としての品質というか、ものを持っている訳です。そりゃ果物は何でも美味しいし、高級ないろんな果物もありますけれどもね。その中で一番最高なものは。
こりゃもう誰れでもがメロンであれば認めるであろう。その変わり夏の日の西瓜畑のように、ぱぁっと広がったり沢山は成らない。作る事も難しいがやはりその果物としての最高級の値打ちがあるように。合楽の信心は、まぁいうなら沢山宗教もある中に、メロンのようなものだという あぁ親先生の我田引水が始まったという人があるかも知れませんけれどもね これはそうじぁないです。本当に総人類がまぁ今日の御理解でいうならば、時節を待っておればそれは待っておるだけじゃなくて。
そこには皆んなが自他共に幸になれる道が絶対開けてくるんだと。そんな宗教が他にあるでしょうか。マホメット教も度々例に出して申し訳ないですけれどもね。それこそ血を流すような争い戦いをしなければ、いうならば立派なものだこれが本当だと、それに例えば向かうならばそれこそ戦争してからでも、その本当な事を本当な事として押し立てて行かにゃならないと、言う様な事になるんです。
理屈じゃないんです。金光教の御信心は、教祖の御信心は。その時節を待っておかげを受けたがよかろうとかな。物事時節に任せとか、打ち向かう者には負けて時節に任せとか。そこにはね負けっぱなしとか勝ちっぱなしとかいう、間近にどうも負けるとか、勝つじゃなくてです、もう相方が皆素晴らしいおかげになってくるんだと。勿論それをいうなら時節を待たせて頂いて、信心辛抱させてもらった者の上には、これは絶対それこそメロンのような味わいのおかげが展開してくるんです。
合楽のここ三十年間の歩みというものは、もうもう本当にそれだったんです、金光教の値打ちというよりも、金光大神の教えをです、今日は『金光大神の道が広うなった』というお知らせを頂きました。金光大神のもと道はもともと広かった。けれどもそれをだんだん百年たっているうちに狭いものにしてきてしまった。それを本部の当りでは、あぁはいかんこうはいかんというて、もういうならば鉢植え的金光教になり下がって行っておる事実である。その印にいわゆる信者は段々減る一方である。
これではいかんこれではいかんと、様々な運動が展開されてますけれどもね、どういう事かというとあんまりにいうならば狭い道にしたからなんです。なる程鉢植えに植える。さあこう摘んだり曲げたりして、こう例えばこう植木鉢の植木を作るような事に、いわば血道をあげてきた金光教。合楽ではそれこそ大地にしっかり根を下ろして、もうしこるだけしこらせようという。でもどうでもいかんならまた切らなければなりませんけれども。言うならば天地がもう相手である。
植木鉢の中にある少しばかりの土が相手ではない。教祖様の例えば時節に任せよと言うのはね、もう天地そのものの働きというものが、そのまま神の働きと喝破しとられるから、神の働きに逆らうな。ちゃんと神が見ておるという事になるんじぁないでしょうか。大きくなる。いうなら合楽のいわゆる説かれております合楽理念が、金光教教団全体が合楽理念にもとづいての、金光教という事になる時に、いよいよ道は、広く大きくなって来るでしょう。
狭いのは合楽が広くしたのではなくて、もともとから金光大神の道と言うのは、例えば今日の御教え頂いただけでも大きいという事が分かります。自分に気にいらん宗教はたたき潰してしまうと、そん為には戦争してからでもと。私は思うんです。あらゆる宗教が合楽理念を元にしての00教であり、00宗にならなければいけないと思うです。それは私は血を見てからと言った様な、なる程合楽で言っておる事は革命的なものだと私は思うです。宗教革命です。
けれどもねそれを戦ってとか喧嘩してとか血を流してまで、それというのじぁないです。時節を待って、そしていうならばなる程合楽の大坪さんがいうとがほんなこつと言う様に、段々なって来る様なおかげを受けなければならんというのが、私の信心理想なんです。教団でも段々ならそれを認めて下さる方が増えて来たと言う事実。しかもそれは共鳴して下さる所に御比礼が輝き出すから不思議です。
そりゃ本当である証拠ですね。ですからね皆さんもです合楽でいわれとるのは、もう本当に果物の王者がメロンである様に、宗教のいうなら最高建議である合楽理念というものが、こんなにも素晴らしいもんだと言う事をですね、実験して実証して成程と合点がいかなければ駄目なんです。でなかったら命を懸けられんです。只信じよ信じよというのじぁないです。しかも合楽理念は立派だ立派だというだけじぁないです。立派なだけのいうなら実証をここに示し現しながらの、いうならばおかげであり信心なんです。
ですからもっともっと広く深くなら合楽でいわれておる信心をですね、追求してそしてそれを自分の血肉にさせて頂いて、成程宗教以前の宗教といわれる十全の教えといわれると言う事を身をもって体験と頭で分かってそれを体でこなして、心で納得してゆくという生き方が望まれる訳なんです。頭で分かっただけじぁでけんそれを実験する。そこには必ず実証が生まれてくる。そこに成程とま合点が行く事になるのですね。だからね本気でねそげんメロンちゃ美味しいもんかと言うと食べてみんと分からんでしょうが。
そげなあげな高かけん手が出らんといわずにね、やっぱりそれを頂いてみる。実験してみる必要がどうでも要るんです。二、三日前から頂くように、合楽に御縁頂いておる皆さん達は、キリスト教にいうなら選民であり、私が頂いた御理解は選手だと。沢山な観衆がいうならそれを見ておる。そしていうならばです本当におかげを頂くなら、いわれる通り言うならば信心であるならば、誰でも成程と合点がいって改式もしよう、いよいよ信心も熱心にしよう、人にも進めようという事になって来るんじぁないですか。本当な事がわからなければやはり駄目。
私は今日は又本当に素晴らしい、そうだなぁと言う事を夢ともそれこそ現つともわかりませんでしたけれども、御心眼であったか御神耳であったか、あのうこの前にも一ぺんあったんですけれどもね、いわゆるこの空中でおいさみがあったんです。空中でだから丁度なんかコルクの栓を抜く時にポ-ンという音がするでしょう。あの音でした。もうほんなこつ空中で。はぁ神様なんか私に分からせようとしござるとだなぁと思ったから、又起き上がって御祈念しました。
そしたらこのうおかげは和賀心にありと言う和と言うのは、平和の「和」が書いてありますよね。だかららいだ心という事なんですけれどもね、金光教でいう和の心とは『素直』と神様から頂いたです。ははぁなる程[素直心の一つにて雲の上までも登る道がある]といわれるのはこういう和なんだと、和賀心その和の心に信心の喜びが伴う、これにおかげは絶対だという事になるのです。だから時節を待つというても、只待っときゃよいというのじぁないです。
そういう和の心賀びの心を願い求めながら、それを追求しながら時節を待つのです。そして和の心とは、こりゃもう金光教独自の私は表現だと思うですね。金光教でいう和の心というのは素直な心という。そして尚お願いさせて貰いよったらですね、あのうまぁ尊い方と言った様な感じの方がね、石の地蔵さんをこうやってう抱いとる所を頂いた。そしてもう力いっぱいう抱いとられるけれども、片一方は石の地蔵さんじぁから、つうとんこん分けたい、石という事は心、心の堅い人はだからおかげは受けられんです。
いこじな人。いんにゃちゅう我の強い人。神様がどんなに愛情をもって、それこそ抱きしめて下さろうとしてもです、もう石の地蔵さんのごつ堅かつはおかげ受けられんですから。自分の思うとるこつがほんなこつのごと思い込んどる人がありましょうが。少しばかり勉強したりするとそういうのがあるんです。だから金光様の信心はどんなに無学のものでも、人が助かる様にもなるし自分も助かっていけるんだと。とにかく馬鹿程にいっちょ素直になれよと、馬鹿と阿呆で道を開けという教えさえもある位です。
親先生が右むけというたら、「ハイ」というて右向いておれれる信心。例えばこれが赤であってもこれは白ばいといわれたら、はぁ白でございますねというその心なんです。そこに神様がそれこそ抱きしめて、それこそ親の愛情というものが交流するような、交うようないうなら神様のお懐の中に生きる事が出来るんです。私は今日の御理解頂いてからね、素直と和賀心の金光教でいう和というのは、そんなに密接というよりもそれなんです。素直な心が和なんです。
なる程素直心にて雲の上まで道がつくんだとおっしゃる、その意味がはっきり分かったような気が致します。もう金光教の信心はどこまでもね、本当にね素直な心をいよいよ求めての信心でなければいけません。それはそのまま和に通ずるのです。そこから賀の心賀ぶ賀正の賀。いわゆる信心を頂かねば頂けない賀びと、それから素直な心和の心をもってです、勿論その和の心というのは壊れない、不壊のものでなければならないという事でもありますよね。
そういう和賀心、今日の「打ち向かう者には負けて時節に任せ」といわれる心は、もうこの和賀心をもってしなければね、歯を食い縛って辛抱しとくというのではおかげになりませんです。辛抱のし損になる。だからそれを和の心、賀の心、よろこびの心をもって、私共が時節を待たせて頂く時に、そこにそれこそ自他共に助かる道が開けてくるのです。 金光教の信心のね、私は今日は一番素晴らしいところと言ったけども、素晴らしい所は沢山ありますよ。
けども今皆さんに今日聞いて頂いた所なんかは、先ずは他の宗教にない特異な教えであると思うですね。はぁもうおかげの一切が頂けるのは、和の心と賀の心、只普通でいう平和な心穏やかな心じゃないんです。神様が右と仰ったらはぁそうですかといえれる馬鹿ほど素直な心が和の心です。その和の心をいよいよ追求しておかげを頂いて行く、始めて打ち向かう者には負けて時節に任せるという事が、どんなに尊い素晴らしい事かという事が改めて分からせて頂いたように思います。
どうぞ。